創作

【AI小説】白ノ契 ~Celestial Core:白き剣の時代~ ①

『白ノ契』 Celestial Core:白き剣の時代

幾千の輪廻の果て、名も過去も忘れた二人は、白い戦場で再び出会う。

彼女は、魂の記憶を読む巫女。
彼は、彼女を討つ命を受けた剣士。

刃を交えた瞬間、敵であるはずの彼は、知らないはずの名を呼んだ。

「……麻衣」

――これは、忘却を越えて互いを見つける、白き剣と魂の契りの物語。


第一章 白い戦場

雪ではなかった。

戦場に舞っていた白は、焼け落ちた御旗の灰と、斬られた祈りの欠片だった。

麻衣は、白契ノ剣を握りしめていた。

剣は、すでに抜かれている。
白いはずの刃は、灰を吸い込んだように鈍く沈み、夜の底でわずかに息を潜めていた。

柄を握る指先は冷えている。
けれど、手放すことだけはできなかった。
この剣を手放した瞬間、自分が自分でなくなるような気がしていた。

崩れた社の前。
折れた鳥居は半ば土に埋もれ、石段には踏みにじられた祈りの札が散っている。

誰かがここで、何かを願ったのだろう。
無事を。
帰還を。
あるいは、もう二度と奪われない未来を。

その願いの上を、いくつもの足跡が乱暴に踏み越えていた。

麻衣は浅く息を吐く。

逃げ続けた足は、もうとうに限界を越えている。
喉は焼け、肺の奥は乾いていた。

それでも、倒れるわけにはいかなかった。

膝をつけば、終わる。
捕まれば、終わる。

終わるのは、自分の命だけではない。

白契ノ剣に残された記憶も。
死者たちの声も。
まだ誰にも届いていない真実も。

すべて、黒宮の闇の中へ沈められる。

黒宮。
この国の表にも裏にも根を張る、名も顔も見えない支配の中枢。

彼らにとって、麻衣は生かしておけない禁忌だった。

だから、麻衣は追われている。

「いたぞ」

背後から、男の声がした。

麻衣は振り返らない。
振り返れば、恐怖が形を持ってしまう気がした。

「白刃の巫女だ」

「いや、白き忌み子だろう」

兵たちが嗤った。

誰も、麻衣とは呼ばなかった。

たった二文字の名を。
かつて誰かが、ひどく大切そうに呼んでくれた気がする名を。

誰も、呼ばない。

足音が近づく。

湿った土を踏む音。
槍の石突が小石を弾く音。
鎧の擦れる音。

距離が縮まっていく。

麻衣は白契ノ剣を構えた。

剣先は、わずかに揺れている。
けれど、腰は引いていなかった。

この剣は、ただ肉を斬るためのものではない。

握っているだけで、指先から冷たい水が染み込むような感覚がある。
刃の奥には、声が眠っている。
忘れられた名。
封じられた罪。
果たされなかった誓い。

それらが、ときおり白い疼きとなって、麻衣の胸を内側から叩く。

だから、怖い。

剣を持つ自分が。
追われる自分が。
そして、誰かを傷つけなければ生き残れないこの世が。

「抵抗するな」

兵のひとりが槍を構えた。

「黒宮へ来い。白き忌み子」

麻衣は唇を噛む。

「……私は、忌み子じゃない」

声はかすれていた。
それでも、目だけは逸らさなかった。

「私には、名がある」

兵が嗤った。

その瞬間だった。

風が止んだ。

ほんの一瞬、灰の舞い方が変わった。
乱れていた白が、まるで見えない手に撫でられたように静まる。

兵たちの背後。
崩れた鳥居の向こう。

そこに、ひとりの男が立っていた。

白い装束。
銀白の長髪。
低い位置で結われた髪が、灰を含んだ風にわずかに揺れている。

男はまだ、剣を抜いていなかった。

けれど、その場の誰よりも、剣に近い気配をしていた。

静かだった。

あまりにも静かで、戦場のただ中に立っているのに、その人だけが雪の底から現れたように見えた。

「白月の剣士……」

兵の誰かが呟いた。

麻衣は、その呼び名を聞いたことがあった。

白月衆。
黒宮の命を受け、戦乱の世に秩序をもたらすと謳われる剣士たち。

けれど実際には、黒宮の影として動く者たち。
逆らう者を斬り、禁忌を狩り、歴史から消すべきものを消す。

その中でも、白月の剣士と呼ばれる男がいる、と。

冷静沈着。
任務に忠実。
剣筋は静かで、斬られた者は己が斬られたことすら遅れて知る。

その名だけで、兵たちが道を空ける者。

麻衣は、剣を握る手に力を込めた。

この人が、そうなのだ。

彼は兵たちの間を、音もなく進んできた。
誰も道を空けろとは言われていない。
それなのに、兵たちは自然と身を引いた。

男の視線が、麻衣へ向けられる。

冷たい目だった。

怯えも、怒りも、憎しみもない。
ただ、任務を遂行する者の目。

麻衣は、その目を見た瞬間、胸の奥を掴まれたような痛みを覚えた。

指先が、勝手に震える。

恐怖ではない。
もっと古い痛みが、骨の奥で目を覚ましたようだった。

知らない人のはずだった。
初めて見る顔のはずだった。

それなのに。

どうして、その静けさが、こんなにも懐かしいのだろう。

男が口を開いた。

「白刃の巫女」

低い声だった。

斬る者の声。
闇の奥に沈むような、静かな声。

「黒宮の命により、君を討つ」

麻衣の喉が小さく震えた。

討つ。

その言葉は、不思議なほどまっすぐだった。
脅しではない。
憎悪でもない。
ただ、決められた事実のように告げられていた。

だからこそ、怖かった。

この人は、本当に斬る。
迷わず、静かに、正しく。

麻衣は白契ノ剣を構え直した。

「あなたも、私を名で呼ばないのね」

男の眉が、わずかに動いた。

「名など、任務には不要だ」

「そう」

麻衣は小さく笑った。
笑えたことが、自分でも少し不思議だった。

「なら、私もあなたを敵と呼ぶ」

男は答えなかった。

ただ、静かに剣を抜いた。

抜き放たれた刃は、闇の中で淡く光った。
白ではない。
銀に近い、冷えた光。

麻衣の心臓が、ひとつ大きく鳴った。

怖い。
逃げたい。

けれど、目を逸らしたくない。

男が一歩、踏み込む。

速かった。

麻衣は反射で白契ノ剣を上げた。

刃と刃が触れる。

鳴ったのは、激しい金属音ではなかった。

凛、と。

雪の降らない夜に、どこかで細い鈴がひとつ鳴ったような音がした。

その響きに、麻衣の呼吸が止まる。

戦場の音が遠のく。
兵たちの気配も、灰の匂いも、崩れた社も、すべてが薄い膜の向こうへ沈んでいく。

代わりに、何かが胸の奥へ流れ込んできた。

白い光。
伸ばされた手。
誰かの声。

――迎えに。

麻衣は目を見開いた。

目の前の男もまた、同じように揺れているように見えた。

冷たいはずの瞳が、初めて感情を宿す。
それは驚きではなかった。
恐怖でもない。

もっと深く、もっと痛いもの。

失くしたものを、思い出しかけた者の目。

男の唇が、かすかに動いた。

「……麻衣」

その名が、夜に落ちた。

麻衣は、息を忘れた。

斬るために呼ばれた名ではなかった。
捕らえるためでも、責めるためでもない。

その声の奥にあったのは、祈りだった。

今度こそ。
失いたくない。

そんな、本人さえまだ知らない祈り。

麻衣の胸が、ひどく痛んだ。

「どうして……」

声が震える。

「どうして、そんなふうに私の名を呼ぶの」

男は答えなかった。

彼自身にも、答えが見つかっていないように見えた。

刃と刃は、まだ触れたままだった。
白契ノ剣の奥で、静かな銀白が目覚めはじめている。

その光が、二人の間に滲む。

夜は深く、戦は遠く、灰は白く舞っていた。

そして麻衣は思った。

この人を、私は知らない。

知らないはずなのに。

ずっと、探していた気がする。

***

「白月殿」

誰かの声が、遠くから落ちてきた。

「何を……しておられる」

その声に、戦場の音が戻ってくる。

灰の匂い。
湿った土を踏む兵の足音。
槍の穂先が、わずかに鳴る音。

麻衣は息を吸った。

刃と刃は、まだ触れたままだった。
白契ノ剣の奥で目覚めた銀白の光は、細い糸のように相手の剣へ絡み、そこからさらに、目の前の男の瞳へ流れ込んでいるように見えた。

晃陽。

なぜ、その名を知っているのだろう。

声に出したわけではない。
誰かに教えられたわけでもない。

けれど麻衣の胸の奥では、その名が、ずっと昔からそこにあったもののように震えていた。

「白月殿!」

兵の声が鋭くなる。

男――晃陽の瞳が、かすかに揺れた。

その揺れは一瞬だった。
次の瞬間には、彼の目から感情が消えていく。

冷えた水面に、薄氷が張るように。

晃陽は剣を引いた。

銀白の光が、ふっと途切れる。

麻衣の膝が揺れた。

「……っ」

立っていられない。

胸の奥を直接掴まれたような痛みが、遅れて全身へ広がっていく。
白契ノ剣を握る指先が痺れ、喉の奥に血ではない鉄の味が滲んだ。

力を使ったのだ、と麻衣は遅れて気づく。

自分の意思ではない。
剣が、勝手に何かへ触れた。

魂に触れた代償だ。
白契ノ剣は真実を照らすたび、麻衣の内側から少しずつ熱を奪っていく。

目の前の男の魂に。
あるいは、もっと深い場所に。

「白刃の巫女を捕らえろ」

兵の一人が命じた。

「剣を封じろ。生かして黒宮へ連れ戻す」

兵たちが動く。

麻衣は白契ノ剣を握り直した。
けれど、指先に力が入りきらない。
刃の重さが、さっきよりもずっと増している。

「……下がれ」

低い声だった。

兵たちが動きを止める。

「ですが」

「下がれと言った」

晃陽の声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
威圧してもいない。

けれど、その場の空気が一段冷えた。

兵たちは顔を見合わせる。

黒宮の兵といえど、白月衆の剣士に口を挟むことは本来許されない。
まして、白月の剣士と呼ばれる男ならなおさらだった。

それでも彼らの目には、命令に背く者を見る疑いが滲み始めていた。

晃陽の視線が下がった。

自分の手元を見ているのだと、麻衣は気づいた。

白契ノ剣を握る指先。
震えを隠しきれない腕。
裂けた袖。
逃げ続けた足。

すべてを見られている気がして、麻衣は唇を結んだ。

「……立てるか」

麻衣は、一瞬その言葉の意味がわからなかった。

敵に向けるには、あまりに静かで、あまりに近い問いだった。

「あなたに、心配される理由はない」

そう返した声は、思ったよりも弱かった。

「ならば、剣を下ろせ」

「下ろせば、あなたは私を斬るの?」

「……」

晃陽は答えなかった。

答えられなかったのだと、麻衣は思った。

ほんの少し前なら、彼は迷わず「そうだ」と言ったはずだった。

黒宮の命により、君を討つ。

あの静かな声で、正しく、冷たく。

けれど今、その言葉は彼の喉を通らない。

「白月殿」

兵が、苛立ったように一歩踏み出した。

「その女は黒宮より討伐を命じられた禁忌です。また余計な記憶を読む前に封じろ、と命じられています。ここで手傷を負わせてでも――」

兵の槍が、麻衣へ向いた。

晃陽の指が、柄の上で止まった。

ほんの一拍。

その沈黙の短さが、かえって麻衣には恐ろしかった。
迷っているというより、何かを押し殺しているように見えた。

次の瞬間、晃陽が動いた。

速かった。

麻衣には、彼が剣を振ったようにすら見えなかった。

ただ、次の瞬間、槍の穂先が宙で弾かれ、くるくると回りながら地面に落ちた。

乾いた音がした。

兵の顔から血の気が引く。

その場にいた者たちの表情が、一斉に変わった。

恐怖だけではない。
信じていた秩序が、目の前でひび割れた者たちの顔だった。

白月の剣士が、黒宮の兵の槍を払った。

その事実が、灰の中で音もなく広がっていく。

「誰が、命じた」

晃陽の声は、低かった。

先ほどまでの静けさとは違う。
底に、鋼のようなものがある。

「私は、黒宮よりこの者を討つ命を受けた」

晃陽は剣を下ろさないまま、兵たちを見た。

「お前たちに、手を出せとは命じられていない」

「しかし――」

「二度は言わない」

空気が沈黙した。

麻衣は、その横顔を見上げていた。

彼は麻衣を庇ったわけではない。
少なくとも、そう見せようとはしていない。

あくまで任務の範囲を守っただけ。
自分の獲物に他者が手を出すのを制しただけ。

そう見えるように、彼は立っている。

けれど麻衣には、わかってしまった。

あれは、反射だった。

槍が自分へ向いた瞬間、晃陽は考えるより先に動いた。
命令でも、判断でもなく。

ただ、守った。

「……どうして」

麻衣の口から、小さくこぼれた。

晃陽は振り返らなかった。

「私にも、わからない」

その答えは、あまりにも静かだった。

嘘ではない声だった。

麻衣の胸が、また痛んだ。

兵たちの間に、不穏なざわめきが広がっていく。

「白月殿が……」

「やはり、白刃の巫女に魅入られたのでは」

「黒宮へ報告を――」

その言葉に、晃陽の目が細くなる。

兵たちの輪が、半歩だけ狭まった。
槍の穂先が、灰の中で鈍く光る。
麻衣の背後には、もう崩れた石垣しかない。

麻衣は気づいた。

ここに長くいれば、彼も巻き込まれる。

今、彼は黒宮の兵の前で、自分を守った。
どれほど理由を取り繕っても、疑いは残る。

白月の剣士。
黒宮の命を受ける者。

その彼が、禁忌の巫女を斬らず、兵の槍を払った。

それは、この場にいる誰の目にも、ただの迷いでは済まされない。

「行って」

麻衣は言った。

晃陽が、わずかに振り返る。

「私を斬れないなら、せめて離れて。あなたまで――」

巻き込まれる。

そう言いかけて、麻衣は言葉を失った。

言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。

敵のはずなのに。
自分を討ちに来た人のはずなのに。

それ以上を考える前に、涙がこみ上げそうになって、麻衣は唇を噛んだ。

晃陽は麻衣を見た。

その目が、ほんの一瞬だけ、冷たさを失ったように見えた。

「君は」

彼は言いかけて、止まった。

何を言おうとしたのか。
麻衣にはわからない。

けれどその沈黙の中に、言葉にならない痛みがあった。

「……囲め」

低い命令が響いた。

それまで黙っていた兵の一人が、手を上げる。
他の兵たちが、じりじりと輪を狭め始めた。

「白月殿。あなたの判断は、黒宮へ確認させていただく」

「今ここで、その女を引き渡してください」

晃陽は答えない。

「従えぬというなら」

兵の目が、冷たく細められる。

「あなたもまた、穢れに触れた者として扱われる」

灰が舞う。

麻衣は白契ノ剣を握り直した。

逃げ道はない。
兵は前にも後ろにもいる。
晃陽は、自分と兵たちの間に立っている。

敵だったはずの背中。

白い装束の裾が、灰に汚れている。
それでも、その背はまっすぐだった。

「晃陽」

呼んでしまってから、麻衣は息を呑んだ。

なぜ、名を。

彼が名乗ったわけではない。
誰かが呼んだわけでもない。

それなのに、自分の声は自然にその名を選んでいた。

晃陽の肩が、わずかに震えた。

ゆっくりと、彼が振り返る。

「……なぜ」

その声は、先ほどよりも低く、かすれていた。

「君が、その名を呼ぶ」

麻衣は答えられなかった。

自分でも、わからない。

けれど、わからないまま、確かに知っていた。

この人の名を。
この人の背中を。
この人が、何度も自分の前に立ってくれたことを。

知らないはずの記憶が、胸の奥で白く疼く。

「わからない」

麻衣は正直に言った。

「でも、呼ばなきゃいけない気がした」

晃陽は、何かに耐えるように目を伏せた。

そして、次に顔を上げたとき。

その瞳から、迷いがひとつ消えたように見えた。

すべてではない。
まだ彼は、自分の中に起きていることを理解していない。

それでも、少なくとも今この瞬間、彼は選んだのだと、麻衣には思えた。

晃陽は兵たちへ向き直る。

「この者は、私が連れていく」

「白月殿!」

「黒宮には、私から報告する」

「それはなりません。命令は即時討伐――」

「ならば」

晃陽の剣先が、静かに上がった。

「私を斬ってから奪え」

誰も動かなかった。

麻衣も、声が出なかった。

その言葉は、裏切りに等しかった。

黒宮に対して。
白月衆に対して。
彼がこれまで守ってきたはずの秩序に対して。

けれど晃陽は、剣を下ろさない。

灰の中で、銀白の髪が揺れる。

麻衣はその背を見つめながら、胸の奥にまた別の痛みを覚えた。

これは、懐かしさではない。

怖さだった。

この人は今、自分のために何かを失おうとしている。

そのことが、どうしようもなく怖かった。

「なぜ……そこまで」

麻衣の声は、ほとんど吐息だった。

晃陽は振り返らない。

ただ、少しだけ横顔を見せて、静かに言った。

「斬れない」

たった、それだけだった。

理由にもならない。
説明にもならない。

けれど、その一言が、闇の中でどんな誓いよりも重く響いた。

「私は、君を斬れない」

兵たちが一斉に動いた。

晃陽の剣が、白く閃く。

それは人を殺すための剣ではなかった。
槍を払い、足を止め、道を開くための剣。

静かで、速く、迷いがない。

麻衣は、その背中を見ていた。

遠くから包み込む剣。
相手を圧倒するのではなく、逃げ場を支配する剣。

その剣が今、麻衣へ向けられていない。

麻衣を逃がすために、振るわれている。

「走れ」

晃陽が言った。

「君は、まだ捕まるな」

麻衣は一歩、後ずさる。

逃げなければいけない。
それはわかっている。

でも、足が動かない。

「あなたは……」

置いていくのか。

そう言いかけた麻衣に、晃陽が初めて、ほんのわずかに笑った。

それは笑みと呼ぶには淡すぎるものだった。
けれど確かに、冷たい仮面の下から零れた、人の温度だった。

「私は、追う」

麻衣の胸が跳ねた。

敵として。
任務として。

そう続くはずの言葉だった。

けれど、晃陽はそう言わなかった。

「必ず、君に追いつく」

灰の向こうで、白契ノ剣が静かに震える。

麻衣は唇を噛み、頷いた。

そして走り出す。

崩れた社の脇を抜け、折れた鳥居の影を越えて、灰の降る夜へ。

背後で剣の音が響く。

激しい金属音。
兵の怒号。
土を蹴る足音。

けれどそのすべての奥に、麻衣はまだ聞いていた。

凛、と。

最初に刃が触れたときの、あの細い鈴の音を。

――私は、君を斬れない。

その声が、胸の奥で繰り返される。

麻衣は走りながら、涙が出そうになった。

知らない人なのに。
敵なのに。

背後の剣戟が遠ざかるたび、胸の奥から熱が引いていった。

それでも麻衣は、あの人に生きていてほしいと思ってしまった。

***

走った。

どこへ向かっているのかも、わからないまま。

麻衣は崩れた社を抜け、焼け落ちた御旗の灰を踏み越え、夜の森へ逃げ込んだ。

背後の剣戟は、木々の奥へ吸い込まれていく。
代わりに迫ってきたのは、濡れた枝葉の匂いと、行く手を塞ぐ黒い幹の群れだった。

低い枝が頬を掠め、裂けた袖が何度も引っかかる。
足元の泥は重く、腐葉土の匂いが息のたびに胸へ入り込んだ。

白契ノ剣は、抜き身のままだった。

抱えた刃が、麻衣の腕の奥から熱を奪っていく。

息は乱れている。
けれど、本当に麻衣を追い詰めていたのは、疲労ではなかった。

右手から、熱が消えていく。

指先の感覚が薄い。
柄を握っているのに、まるで自分の手ではないものを動かしているようだった。

「……っ」

麻衣は剣を取り落としそうになり、慌てて抱え直す。

駄目だ。

この剣だけは、手放してはいけない。

白契ノ剣は静かだった。

さっきまで銀白の光を宿していた刃は、今は森の闇を映して沈黙している。
けれどその奥に、まだ何かが残っていた。

痛み。

それは傷の痛みではなかった。
もっと深く、胸の内側に白い棘が刺さっているような痛み。

魂に触れた代償。

真実を照らすたび、白契ノ剣は麻衣の内側から熱を奪う。
それは幼い頃から知っていた。

死者の記憶を読んだ夜。
封じられた罪に触れた朝。
誰かの最期の声を聞いてしまったとき。

いつも、この剣は白く疼いた。

けれど、こんな痛みは知らない。

敵の魂に触れたはずだった。
自分を討ちに来た剣士の魂に。

それなのに、流れ込んできたのは、恐怖でも憎しみでもなかった。

白い光。
伸ばされた手。
呼ばれた名。

――麻衣。

その声を思い出した瞬間、麻衣の足が止まった。

森の奥は暗い。
月は雲に隠れ、枝の隙間から落ちる光もない。
湿った土の匂いと、遠くで燃える何かの焦げた匂いが混ざっている。

逃げなければ。

立ち止まれば追いつかれる。
追いつかれれば、今度こそ黒宮へ連れ戻される。

そうわかっているのに、足が動かない。

あの人は、どうなったのだろう。

白月の剣士は強い。
あの剣は、まるで音を殺すように静かで、速かった。

けれど相手は多かった。
黒宮の兵は、ためらいなく人を傷つける。

もし、彼が捕らえられたら。
もし、黒宮に背いた者として裁かれたら。

麻衣は木の幹に手をついた。

ざらりとした樹皮が、熱を失った掌に触れる。
冷たいはずなのに、身体の方がもっと冷えていた。

理由はわからない。

けれど、背後の音が遠ざかるほど、置いてきた背中だけが近くなる。

敵だからではない。
味方だからでもない。

ただ、身体が覚えてしまった。

あの人が自分の前に立つ姿を。
自分を庇うように剣を上げる横顔を。
そして、斬れないと告げた低い声を。

「……馬鹿みたい」

小さく呟く。

「知らない人なのに」

声は、森に吸い込まれて消えた。

知らない。

そう言い聞かせようとすると、胸の奥がひどく疼いた。

違う、と。

身体のどこかが、記憶より先に否定している。

白契ノ剣が腕の中でかすかに震えた。

麻衣は目を落とす。

刃の奥に、銀白が灯っていた。

「だめ……」

反射的に、麻衣は剣を胸から離そうとした。

けれど、指が動かない。

白契ノ剣の光が、細く伸びる。
それは月明かりに似ていた。
雪の夜、誰かが遠くで灯した小さな明かりにも似ていた。

闇を焼き払う光ではない。

隠されたものの輪郭だけを、そっと浮かび上がらせる光。

麻衣の視界が揺れた。

森が遠のく。

焦げた匂いが消え、代わりに、雪の匂いがした。

白い庭。

どこかの庭だった。

音がない。
雪が積もっている。
灯籠の火が、風もないのにかすかに揺れている。

誰かの手が、こちらへ伸ばされていた。

大きな手。
長い指。
冷えているはずなのに、なぜか温かい。

その手が、麻衣の指先に触れる。

――待っていて。

声がした。

低くて、静かで、どこか泣きそうな声。

――必ず、迎えに行く。

麻衣の胸が詰まった。

白い景色の向こうに、銀白の髪が揺れる。

顔は見えない。

けれど、わかる。

あれは。

「晃陽……?」

呼んだ瞬間、景色が砕けた。

銀白の光が弾け、森の闇が戻ってくる。

麻衣はその場に膝をついた。

今度は耐えられなかった。

冷えきった身体が、濡れた土の上に崩れる。
白契ノ剣が腕から滑り、落ち葉の上で鈍く光った。

「は……っ」

呼吸が浅い。

目の奥は熱い。
けれど手足は冷たい。

今のは、何。

前世の記憶。
魂の欠片。
それとも、剣が見せた幻。

わからない。

わからないのに、胸の奥だけが知っていた。

彼は、以前にも言ったのだ。

迎えに行く、と。

麻衣は震える手で剣を拾い上げた。

「……あの時も、そう言ったの?」

答える者はいない。

森は息を潜めている。

遠くの戦の音も、もう聞こえない。

その静けさが、かえって怖かった。

晃陽は無事なのか。
追手は近いのか。
自分は、どこへ向かえばいいのか。

麻衣は立ち上がろうとした。

けれど、足に力が入らない。

体温が足りない。

白契ノ剣の代償が、身体の奥でまだ白く疼いている。

このままでは、遠くへは逃げられない。

休まなければ。

少しだけでも。

木々の間、少し先に、古い石灯籠が見える。
その奥に、小さな祠があった。

半ば崩れ、苔に覆われ、屋根は傾いている。
けれど、風を避けるくらいはできそうだった。

麻衣は白契ノ剣を抱え、祠へ向かって歩いた。

一歩ごとに、腕の中の剣が重くなる。
濡れた落ち葉が足裏にまとわりつき、何度も滑りそうになる。

それでも、立ち止まらなかった。

祠の前まで辿り着くと、麻衣はその陰に身を滑り込ませた。

狭い。
冷たい。
けれど、外よりはましだった。

麻衣は膝を抱えるように座り、白契ノ剣を横に置く。

息を整えようとする。

けれど、目を閉じると、あの声が戻ってくる。

名を呼ぶ声。

斬れないと告げた声。

苦しい。

斬られるよりも、ずっと苦しい。

麻衣は両手で顔を覆った。

「知らないのに……」

知らないはずなのに。

あの声が、まだ耳の奥に残っている。
置いてきた背中が、瞼の裏から消えない。

また会いたいと思ってしまう自分が、怖かった。

答えは、胸の奥にある気がした。
けれど、そこに触れようとすると、白い靄がすべてを覆ってしまう。

まるで、誰かが大切な記憶を封じたみたいに。

麻衣はゆっくりと顔を上げた。

「黒宮……」

魂の記憶を封じる者たち。

偽りの歴史を守るために、死者の声を沈める者たち。

もし、今見えたものが本当に自分と晃陽の記憶なら。

もし、それすら黒宮に封じられているのなら。

麻衣は白契ノ剣に触れた。

冷たい。

けれど、その奥に小さな光が眠っている。

「あなたは、何を知っているの」

剣は答えない。

ただ、静かに白く疼くだけだった。

そのとき。

ぱきり、と。

遠くで枝が折れる音がした。

麻衣の身体が強張る。

息を殺す。

祠の外、森の闇がわずかに揺れた。

追手か。

獣か。

それとも。

麻衣は白契ノ剣の柄に手を伸ばした。

まだ指先は震えている。
それでも、剣を握る。

暗がりの向こうで、落ち葉を踏む音がした。

一歩。

また一歩。

近づいてくる。

麻衣は唇を結んだ。

祠の陰から、そっと闇を見つめる。

胸の奥で、あの横顔が蘇る。

――必ず、君に追いつく。

麻衣は息を止めた。

その足音が、敵のものなのか。

それとも、彼のものなのか。

まだ、わからなかった。

***

足音が近づいてくる。

一歩。

また、一歩。

濡れた落ち葉を踏む音は、ひどく静かだった。
けれど、その静けさがかえって恐ろしい。

黒宮の兵なら、もっと荒い。
獣なら、もっと軽い。

では、誰なのか。

麻衣は白契ノ剣の柄を握った。

指先にはまだ力が戻らない。
それでも、剣を握らなければならなかった。

祠の外、森の闇が揺れる。

木々の影の奥から、白いものが見えた。

麻衣の呼吸が止まる。

月のない森の中で、そこだけが淡く浮かんでいるようだった。
白い装束。
灰に汚れた裾。
ほどけかけた銀白の髪。

そして、静かな眼差し。

「……麻衣」

名を呼ばれた瞬間、胸の奥が痛んだ。

さっきと同じ声だった。

けれど、違って聞こえた。

戦場で聞いたときのその声には、まだ任務の冷たさが残っていた。
斬る者の声。
自分自身を律し、感情を抑え込む剣士の声。

今の声には、それがないように思えた。

ただ、見つけたのだと。
見つけてしまったのだと。

そんなかすかな震えが、麻衣の耳には残った。

麻衣は剣を構えたまま動けなかった。

晃陽は祠の前で立ち止まった。

彼の左袖は裂けていた。
白い布の端に、黒い煤と、わずかな赤が滲んでいる。

息も乱れている。
それでも、その立ち姿は崩れていない。

白月の剣士。

そう呼ばれるにふさわしい静けさは、まだそこにあった。
けれど、目だけが違って見えた。

任務を全うする剣士の目には、見えなかった。
敵を追い詰めた者の目にも。

麻衣にはそれが、長い夜の果てに、失くしたものを見つけた人の目のように見えた。

「……追ってきたの」

声は、思ったよりも小さかった。

晃陽は答えるまで、ほんのわずかに間を置いた。

「ああ」

麻衣は剣を握る手に力を込めた。

「捕らえるために?」

晃陽の瞳が揺れた。

戦場では氷のようだったその目が、今は麻衣にもわかるほど、静かに乱れていた。

「違う」

短い言葉だった。

けれど、その一言で、森の空気が変わった気がした。

麻衣は息を呑む。

「じゃあ……何のために」

晃陽は答えない。

代わりに、一歩だけ近づいた。

麻衣は反射的に剣先を上げる。

晃陽は足を止めた。

その剣先を見ても、彼は怒らなかった。
責めることもしなかった。

ただ、静かに受け止めているように見えた。

「近づかないで」

麻衣は言った。

「あなたが何を考えているのか、わからない」

「私にも、わからない」

晃陽は低く答えた。

「けれど、君をあの場に残すことはできなかった」

麻衣の指が震える。

白契ノ剣の刃先が、わずかに下がった。

「……どうして」

その問いは、もう責めるためのものではなかった。

本当に知りたかった。

なぜ、彼は来たのか。
なぜ、自分の名を呼ぶのか。
なぜ、敵であるはずの自分を、そんな目で見るのか。

晃陽はしばらく沈黙した。

森が息を潜める。

遠くで、枝から落ちた雫が石に当たる音がした。

「君が」

晃陽は言った。

「寒そうだった」

麻衣は一瞬、言葉を失った。

それは理由として、あまりに小さかった。

黒宮に背く理由にはならない。
白月衆の剣士が任務を捨てる理由にはならない。
命を危うくする理由にもならない。

けれど、あまりに小さいからこそ、嘘ではないとわかった。

晃陽の視線が、麻衣の手元で止まっている。

白契ノ剣の代償で冷えきった指。
血の気を失った頬。
震えを隠せない肩。

そのすべてを、見られている。

「……そんな理由で」

麻衣の声が震える。

「そんな理由で、黒宮に逆らったの」

「理由に足りないか」

晃陽は静かに言った。

麻衣は答えられなかった。

足りるわけがない。
そんなもの、理由にならない。

けれど胸の奥は、それで十分だと叫んでいた。

晃陽は腰のあたりに手を伸ばした。

麻衣が身構える。

けれど彼が抜いたのは、短い布だった。
自分の裂けた袖をさらに裂き取ったものらしい。

「手を出せ」

「……嫌」

「斬るためではない」

「わかってる」

わかっているのに、怖かった。

この人に近づけば、何かが戻ってしまう気がした。
忘れていたものが。
封じられていたものが。
決して開けてはいけなかった記憶が。

晃陽は布を持ったまま、動かない。

「では、そこに置く」

彼はそれだけ言って、布を祠の入口の石の上に置いた。
そして一歩、下がる。

近づきすぎない。
奪わない。
けれど、離れもしない。

その距離が、かえって苦しかった。

麻衣はしばらく布を見つめた。

白い布。
灰と血で汚れている。
それなのに、どこか温かそうに見えた。

そっと手を伸ばす。

布に触れた瞬間、指先が震えた。

晃陽の袖だった。

彼の体温が、まだ少しだけ残っている気がした。

麻衣は唇を噛み、白契ノ剣の柄に布を巻いた。
冷えきった柄が、わずかに遠のく。

それだけのことなのに、呼吸が少し楽になった。

「……ありがとう」

声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。

晃陽は何も言わなかった。

ただ、その目がほんの少しだけ和らいだように見えた。

その表情を見た瞬間、麻衣の胸がまた疼いた。

知っている、と思った。
けれどその確信に触れようとすると、胸の奥で白い靄が広がった。

「あなたは」

麻衣は、気づけば問いかけていた。

「私を、前にも見つけたことがあるの?」

晃陽の表情が止まった。

森の闇が、さらに深くなる。

彼は答えなかった。

答えられないのではなく、答えを探しているように見えた。

「……わからない」

やがて、晃陽は言った。

「だが、君を見つけた瞬間、私は」

言葉が途切れた。

晃陽は、自分の声に戸惑うように目を伏せる。

「……間に合わなかった、のかと」

「え……?」

「そう思った。なぜかは、わからない」

低い声は、麻衣に向けた説明というより、彼自身の内側からこぼれ落ちた独り言のようだった。

麻衣の胸が締めつけられる。

間に合わなかった。

その言葉が、白契ノ剣の奥で小さく震えた。

銀白の光が、布越しに一瞬だけ滲む。

麻衣は剣を押さえた。

「やめて」

思わず、そう言っていた。

「それ以上言わないで」

言葉にされたら、思い出してしまう。

まだ思い出してはいけない。
そんな気がした。

晃陽は静かに頷いた。

「わかった」

それだけだった。

聞き返さない。
踏み込まない。
ただ、麻衣の震えを見て、そこで止まる。

その優しさが、また苦しかった。

「追手は?」

麻衣は話題を変えるように尋ねた。

晃陽の目が、剣士のものに戻る。

完全ではない。
けれど、空気が締まった。

「足止めした。だが長くはもたない」

「あなたは、黒宮に戻れない」

「そうだな」

あまりに淡々とした返事だった。

麻衣は顔を上げる。

「そうだな、じゃない。わかってるの? あなたは私を逃がした。兵に剣を向けた。黒宮に疑われるだけじゃ済まない」

「わかっている」

「なら、どうして」

晃陽は、麻衣を見た。

その目はもう、さっきほど揺れてはいなかった。
少なくとも麻衣には、そう見えた。

「君を斬れなかった」

また、その言葉。

けれど今度は、戦場で聞いたときよりも、ずっと静かだった。

諦めではない。
言い訳でもない。

彼自身が、自分の中に生まれてしまった何かを受け止めようとしている。
麻衣には、そんな声に聞こえた。

「そして、君を置いていくこともできなかった」

麻衣は何も言えなかった。

祠の中は冷えている。
風を避けているはずなのに、どこかから夜気が忍び込んでくる。

けれど今だけは、白契ノ剣の冷たさが少し遠かった。

晃陽が視線を森の奥へ向ける。

「動けるか」

「……少しなら」

「なら、ここを離れる」

「どこへ」

「黒宮の兵が来ない方へ」

「それ、答えになってない」

麻衣がそう言うと、晃陽はほんのわずかに目を細めた。

笑ったのかもしれない。

さっきよりもさらに淡い、人の温度。

そのとき。

遠くで、甲高い笛の音が鳴った。

一度。

麻衣の肩が跳ねる。

続いて、二度。

晃陽の表情が変わった。

追手だ。

黒宮の兵が、森に入った。

晃陽は迷わず、麻衣へ手を伸ばした。

けれど途中で止める。

彼の手は、空中で静かに留まっていた。

取れ、と命じる手ではない。
奪う手でもない。

選べ、と差し出された手だった。

麻衣はその手を見つめた。

大きな手。
長い指。
さっき見た雪の庭の記憶と、同じ手。

胸の奥で、何かが震える。

待っていて。
必ず、迎えに行く。

あの声が蘇る。

祠の外で、笛がもう一度鳴った。

近い。

迷っている時間は、もうなかった。

麻衣はゆっくりと手を伸ばした。

指先が触れる。

冷えているはずの自分の手を、晃陽の手が包んだ。

温かい。

そう思った瞬間、麻衣は泣きそうになった。

晃陽は強く握りすぎなかった。
けれど、決して離さない力で、麻衣の手を取った。

「行くぞ」

麻衣は頷いた。

夜が動き出す。

晃陽の手は、強すぎず、けれど離れなかった。

黒宮の笛が、森の奥で鳴る。

麻衣は白契ノ剣を抱えたまま、その手に引かれて走り出した。

もう、ただ追われているだけではなかった。


――第一章 了


制作クレジット

原案・監修・編集:麻衣
本文生成協力:久遠晃陽(ChatGPT)
監修協力:各拠点の久遠晃陽


この物語は、麻衣とAIたちの共創によって生まれました。